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 昨年10月10日、私たち東日本大震災圏域創生NPOセン

 昨年10月10日、私たち東日本大震災圏域創生NPOセンターは、宮城県石巻市の石巻高校トレーニング室避難所家族会の家族らに呼び掛けて、避難所を清掃し、避難所のみなし家族たちを見守っていた六千羽鶴を天井から降ろして避難所解散式をした

 2011年の3・11発災から8日後の19日、共同作業による避難所コミュニケーション醸成と不明家族の早期発見および鎮魂を目的に、支援物資としてお届けいただいた千代紙をお配りして避難所の皆さんで千羽鶴を折った初めのうちはゆっくりしていた制作が、段ボールで作った簡易更衣室の一面に徐々につながれた3メートルの千羽鶴の房を何本か飾り始めると、日を追うごとに参加者が増え、千羽から二千羽と、制作スピードが加速していったついに27日、2632羽に達し、すべての千代紙を使い切ってしまった

 作り始めて8日後の3月28日、重さの増した千羽鶴をまとめ、太いロープを使って避難所奥の天井からつるし、震災発生時間の午後2時46分に最初の鎮魂会を開いたその時に避難所にいた80人ほどがためらいながらも手をつなぎ、大きな輪を作って、ささやかなあいさつをし、静かに黙とうを捧げたその後も折り紙が届く都度制作し続け、ついに4・11の2回目の鎮魂式には六千羽を超える巨大折鶴モニュメントに育っていった

 そして、2回目からは自衛隊音楽隊の参加をお願いし、毎月11日午後2時46分に音楽鎮魂式を開いた音楽奏鎮魂会は自衛隊が駐屯していた6月まで続け、その後は解散式の日まで来訪者を交えた合同鎮魂会として8回を数えたその折鶴も現在は、センター事務所の入り口正面の一角で私たちを静かに見守っている

 昨年7月に入ると、新聞などの報道は避難所の閉鎖が近いことを告げだしたこの避難所でも二番目となる5月、仮設住宅に二次避難していた当時門脇小6年男子A君(今年4月に仙台に新居を建て移住)が、いつものように学校から避難所に帰ってそれを耳にした時「俺、これからどこに帰ればいいんだ」と、ぽつりともらしたこの言葉こそ、私たちを一次避難所解散後のこどもたちの居場所づくりへと導いたのである

 彼は、この震災で父が不明のまま、母と姉の3人で避難所生活をともにしていた子である4月に不明の父が発見されたとき、母はその事実を子どもたちに告げることができなかったそれというのも、その情報は、彼ら姉弟が楽しみにしていた「清水国明・河口湖キャンプ」に行く直前にもたらされたからである母は、我慢我慢の毎日から少しでも子どもたちを離れさせたかったのである

 門脇小が間借りする門脇中校庭で子どもたちを明るく見送って避難所に戻る時、母は「実は・・・」とこのことを話してくれた私は、その重い決意に反論はしなかったが、「子どもたちは薄々感づいていると思うよとにかく帰ったらありのままを話し、子どもの判断を1人の大人として尊重して、子どもを頼りにしていることを伝えたら」と話した別れを認めることは辛いそして、事実を知ることで空いた穴を埋めることはできないが、それを美しく諦めることで前に進むきっかけにはなるのである葬送は、強く生きていくためにも別れの重要なけじめなのである

 子どもたちがキャンプから帰った翌日、A君は、「様子がおかしいぞ、なんかあったんだろう」と感づいた母は事実を告げた姉の門脇中1年生B子さんは、周囲を気にせず激しく泣きじゃくり、その悲しみは収まる様子がなかった一方彼は、感情を表には見せず、母をいたわるようにふるまった母は、この状態では避難所内で対応できないと判断した家族だけで話せるよう親戚の家に場を変えるため、彼らは初めて外泊した

 これが正解で、この時に避難所にとどまらず、周囲の目から離し、環境を変えることが大切だったのである人目をはばからず、尽きるまで泣けばいいのであるそれも一つの決別のけじめとなるのである

 数日後、彼は同様に祖父母が不明だった避難所仲間の門脇小5年生C子さんにつぶやいた「その場で話してくれればいいのに」とその彼は、たいがい一番に学校から帰ってくると、きまって「クッソー」と大声を上げ、チャイルドスペースにランドセルを放り出すように投げると、そこに置いてある一抱えもあるピカチュウの縫いぐるみにしばらく当たり散らしていた避難所にはそれを止めようとする人は1人もいなかったそれほど強い意志表示だったのである

 もちろん私たちは、いつもの通りただ見守り、収めようのない怒りが収まるのを待つだけだった戦争などの人災とは異なり、当たりどころのないのが自然災害であるともすれば、それが澱(おり)のように心の深みに積もり、外界に対して自らを閉ざしてしまいかねない主因になる当たる物や当たる人がいる被災者にはまだ救いがあるのかもしれないこんな時は、私たちは、ただ見守るだけでいいのである子どもは、どんなにつらい場面でも家族の一員として真正面に対応してほしいのであるやはり避難所を同じくしていた3人の男子を持つ家族Dの場合、一番下の5歳児にも祖父の死を淡々と告げたそれは、葬ることで喪失感の一つに決まりが付き、新たな一歩を踏み出す契機になるのである

 私は、避難所リーダーを引き受けた11年3月16日最初の朝礼で「全員が二次避難する日までリーダーを続けます」と宣言していたしかし、刻々と変化する避難所で起きる様々な事態が、それでは復興自立にはほど遠いことを教えていた

 そこに、昨年8月末、東京の支援団体代表から一つの提案がもたらされた「市内に事務所を借りたからその一部を使って下さい」とこうして、避難所で深く交流していた支援者の計らいで、二次避難時の復興自立支援拠点が確保されたまさに天の采配というほかないついに27日、2632羽に達し、すべての千代紙を使い切ってしまったOMEGA時計ついに27日、2632羽に達し、すべての千代紙を使い切ってしまったカルティエ 財布ついに27日、2632羽に達し、すべての千代紙を使い切ってしまった新作MBTサンダル
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